2017年7月20日木曜日

感覚を言語化するクセをつけよう

よくテレビを見ていると、食レポをする芸人さんを見かけます。
食レポが上手な芸人さんもいれば、下手くそな芸人さんもいらっしゃいます。

この食レポ、やってみると分かりますが、非常に難しいです。

「美味しい」という感情を、「美味しい」という単語を使わずに視聴者に伝えなければなりません。
中には、表情や口調で伝える芸人さんもいらっしゃいますが、そんなのは邪道です。
やはり、しっかりと言語で伝えるべきだと、私は考えます。

よくワイン評論家がワインの味を表現する時の感覚。
『神の雫』というマンガをご存じの人は、何となく分かるのではないでしょうか?

で、これって、別に食レポが上手になれるようになろうというわけではありません。
味覚のような感覚を言語化できるようになりましょうという話しです。

料理が食べたときの味覚を言語化…
音楽を聴いたときの聴覚を言語化…
絵画を観たときの視覚を言語化…
アロマを嗅いだときの嗅覚を言語化…
ビーズクッションに座ったときの触覚を言語化…

自分の感覚を言語化できるようになると、俄然、表現力の幅が広がりますからね。
そしたら今度は、自分の感情や心境を言語化してみましょう。

単に嬉しいではなくて…
単に頭にきたではなくて…
単に寂しいではなくて…
単に楽しいではなくて…

そうすると、自分の感情を単に感じるのではなく、もっと客観的に感じることができ、それを言語化することで、発言できるようになります。
しかも、その発言はどんどん説明上手になっていくでしょう。

結果、理路整然と説明できるだけの語彙力と表現力が身につきます。
当然ですが、文章に落とし込むと文章力も飛躍的に向上するはずです。

何となくではなく、何でなのかをしっかりと考えるということ。
是非、やってみてください。

2017年7月18日火曜日

文章を人に何かを伝えるためのツールと考える

文章は人に何かを伝えるためのツールです。
何かを伝えるということは、求められるのは表現力ですよね。

でも、それを難しく考える人が非常に多く、文章を書くことに苦手意識を持っています。
だから、一度、原点回帰をしてみましょう。

そもそも文章は、人に何かを伝えるためのツールなんですよ。

もし、あなたが、いきなり知らない国に渡航したとして、そこで何かを伝えなければならなかったらどうします?
しかも、そこで何かを伝えなければ、お腹が空いて餓死してしまうとしたら…。

あなたの言葉が通じなければ、身振り手振りで自分の状況や状態を相手に伝えて、理解してもらう工夫をするはずです。
その身振り手振りも人に何かを伝えるためのツールですよ。

では、その渡航した国が英語圏だったらどうします?
知っている単語を駆使して、片言の英語で何とか伝えようとしますよね。

今度は、青森の奥地だったらどうでしょう?
そこにいるのは津軽弁を話す老婆だったら…。

きっと、あなたは一生懸命に説明し、一生懸命に聞き取ろうとすることでしょう。

これが視覚障害者だったら、言葉だけでイメージできるように伝えようとしますよね。
そして、聴覚障害者だったら、間違いなく筆談をするはずです。

つまり、大事なことは、相手に伝えたいという気持ちです。
これは文章でも一緒。

文章力というのは、スマートに相手に伝えるための方法でしかありません。
でも、それよりも、もっと大切なことが、相手に伝えたいという気持ちなのです。

この気持ちがあれば、文章力が稚拙でも、相手にしっかりと伝わるでしょうし、この気持ちがなければ、いくら素晴らしい文章だったとしても、相手の心には何も響かないでしょう。

なので、相手に伝えたいという気持ちを文章というツールに乗せるイメージです。
視覚障害者にも伝わるぐらい丁寧に、そして、聴覚障害者に伝わるような文字で表現してみてください。

そうすれば、文章力なんかなくったって、しっかりと伝わる文章になっているはずです。

文章は人に何かを伝えるためのツールでしかないことを再確認した上で、相手に伝えたいという気持ちの重要性を考えてみてください。
文章を書くのなら、何のために文章を書くのかという本来の目的を理解しておかなければ、何時まで経っても小手先の文章力を上げることに躍起になってしまいますからね。
それでは何時まで経っても本当の文章力はつきませんよ。

2017年5月17日水曜日

コンテンツは少し盛った方がいい

書籍にせよ、ブログにせよ、コンテンツを発信する場合には、少し盛った方がいいです。
「こんなに便利なんだよ」「こんなに凄いんだよ」「こんなに素晴らしいんだよ」…と、言った感じに。

それぞれが配信するコンテンツは、それを読む者から時にはお金を、時には時間を奪っています。
読者から奪う者がある以上、何かお得感がなくては読者の読後感があまりいいものではなくなってしまいます。

結果、その人のコンテンツは読まれなくなるという…。

だからこそ、この盛るということをしなくてはならないのですが、日本人は非常に苦手のようです。
奥ゆかしさが美徳という文化的な側面があるのかもしれません。

でも、実は、この盛るということをした方がいい理由は、他にもあるのです。

コンテンツを発信して、何かを伝えようとしたとき、淡々とした解説のようなコンテンツになることが多くありませんか?

何かを解説しようと思うと、つい目の前にあることをどう伝えるかばかりに気がいってしまって、読者不在の自分本位なコンテンツになることが非常に多くなります。
一生懸命に伝えているつもりでも、伝わらない…。

理由は簡単。

淡々とした解説というのは、よほど困っていない限り、読みたいと思いません。
そもそも、淡々とした解説は面白くないですからね。

で、そこで必要なのが、この盛るということ。

同じ解説をするのでも、端に解説をするのではなく、それをした結果、「こんなに便利なんだよ」「こんなに凄いんだよ」「こんなに素晴らしいんだよ」…となっていると、自然と読者に向いたコンテンツになっていきます。
読者に伝えるべきは、解説ではなく、その結果。
そして、その結果を伝えるための、解説。
そう考えると、どうやって読者にこの魅力を伝えようかを考えるようになり、その淡々とした解説に命が吹き込まれます。

すると、読んでいる方もワクワクしながら読むことができますし、それを読んだ結果、得られるものがあるような気になるわけですから、読後感も満足してもらい、また読んでもらえるようになるということです。

実際、いろいろな書籍を編集してきて思うのは、奥ゆかしい人の原稿ほど淡々としていて面白くない。
読んでいても、やりたいと思わないんですね。
逆に、情報起業家さんの原稿は日本語としての出来はさておき、何だか読んでいてワクワクするんですね。
早くやりたくなるんです。

この違いを考えた時に、もっと盛るということを意識することで面白いコンテンツになる人って、意外に多いんじゃないかなぁ〜と思った次第です。

ただ、盛りすぎると、逆に不快感を与えますし、発信者への不信感が芽生えかねないので、注意しましょう。
何事も適度が大事ということで。